壺屋とやちむんの里


今から300年前、沖縄本島の各地に窯がありました。読谷には「喜名焼き」、知花に「知花焼き」など。焼き物に銘が入っているものが残っているようです。線描きなど厨子甕も存在しているようです。かつての窯の存在は壺屋博物館にも展示でも観ることもできます。各地にある窯を首里の王府が一カ所に集めたというのが、那覇の壺屋の始まりです。今より320年ぐらい前のこと。

王府の援助があって大きく栄えた壷屋は、当時は泡盛壷が主流でアラヤチ(荒焼き)を多く作っていました。沖縄戦が始まる頃までは沖縄では壺屋が焼き物の中心でした。当時の壺屋はなだらかな丘で周りにはキビ畑や森があり、瓦葺きや茅葺きの登り窯がありのどかな風景でした。戦前の写真を探しみるとそれらの景色を少し感じる事ができます。その景色は戦後になると無くなっていったのです。

現在壺屋に残っている登り窯は、フェーヌ窯、アガリ窯で保存されています。偶然ラジオで聞いたところによると、戦中は近所の戦火から人々を窯に逃がすなど壺屋の連帯は強く職人たちによって地域を守ったそうです。地域からみた壺屋はきっと頼もしい存在だったことでしょう。杉村恒写真集「沖縄の手」研光社により当時の沖縄職人たちの姿をみることができます。

戦後はすぐに那覇を解放できなかったようですが、壺屋はそのまま残っており、その一角は人々に解放されました。すると付近が人で混み始めだんだん町となり、黒煙をはく窯たきができにくくなっていったのです。沖縄陶器を学びに沖縄にきていた濱田庄治氏とも交流を持つなど、時代と共に民藝活動も活発となり壺屋の名が通るようになっていきました。当時から有名な陶工は、金城次郎、新垣えい三郎、小橋えい四郎の三人。壺屋三人男という呼ばれ方をしてます。新垣氏と小橋氏はもともと窯元でしたので窯をお持ちでしたが、金城氏は共同窯で創作されています。

沖縄陶器を愛する多くの人々の手助けがあり、読谷村が土地を賃貸し金城氏が読谷に窯を持つようにと進んでいった事が読谷村「やちむんの里」構想のはじまりの理由のひとつであるようです。金城次郎氏が沖縄初の人間国宝となりました。金城氏の魚紋はいまでも印象的です。その後、やちむんの里には、城氏以降に共同窯の読谷山焼ができ、二代目にあたる読谷山焼 北窯がと続きます。当時の村長、役場、陶器に関係のある先生方、陶工の方々にとっても激動の時代であった事は間違いありません。今となっては私は資料を拝見する限りですが、ここに関わる大人たちの覚悟が現代の文化的な空間づくりの始まりとなっていることに感銘を受けます。初代共同窯の読谷山焼の4名の先生方にしても、土地は村からの借用なので賃貸費がかかる訳ですので、自立に至るまでのご苦労は並大抵の事ではないと想像できます。読谷山焼8工房で毎年年末に開催される盛大な陶器市をみるだびにそれを思い出し、近所や遠方からお集りのお客さんの姿を眺めるたびに人の時間に感動します。

「あめつちの日々」元村長のインタビューより。「文化で飯がくえるかよ、と言われた」と笑っていらした事が印象的でした。

2015年現在、読谷村内に62工房、やちむんの里内19工房、やちむん工房が存在しています。