東京- 紀尾井ホール


 

ベランダで空を眺めて秋を感じてほっとする。熱中症気味のだるさも落ち着いたようだけど、日中はまだまだ油断ができない気もする。仕事部屋に西日があたる時間になると、私は空を確認するためにこうやってベランダにでるようになった。ゆっくり季節が移動している。夕日の色が変わってきたし、太陽が山へ落ちる場所も西へズレてきているようなので秋はそこまで来ていると思う。

夕方、仕事部屋を出て東京・紀尾井ホールに向かった。音楽を浴びるため。豪華にも知人に招待していただいた。忙しさに負けて音不足だった毎日を少しは解消したい気持ちがあったので、とてもいい機会だと喜び、普段めったに乗らない夕方の首都圏行きの電車にもすっと乗り込んだ。Ivry Gitlisを聴くために。今日も音楽鑑賞ができる幸せに感謝しつつホールへ向かう。こういう気分も久しぶり。

…と、心に油断を持ちすぎてたのだろうか、すごいことが起きてしまった。不覚にも鑑賞を甘くみていたのか、いや、そんなはずはない。今日のバイオリンには覚悟していたはず。愕然としたというのはこういう体験のことを言うのか。

全く関係はないのだけど、20年ほど前に助監督として向かったイタリアロケを思い出した。それはベネチアとローマを堪能し、今考えても良き勉強となった仕事だった。イタリアのマエストロ、ジュゼッペ・シノーポリを撮る仕事で、撮り中はいろいろあったのだけども、チネチッタでラッシュをみたまでのことを深く覚えている。ただ今となって考えてみれば、当時の自分は幼すぎて、実にもったいない内容の仕事だったと思うのが本音。その時は精一杯だった。でも今だったらどんなに…、と思うがシノーポリはもう他界している。

今日の音楽会ではまれな体験をした。それは簡単に書くことを求められない種類。音を聞きながら音楽を超えた域を感じるということだろうか。ただ深くふかく。それは世のイメージを捉え支えてくれる。勿論、シノーポリとは全く違う音楽なのだが、自分の幼さゆえに受けた当時の衝撃という意味では同じかもしれない。もっと深めたい話であるのだけど、心がうけたことを書き残すととを拒否する感がある。そうしてそれらを映像にすることもきっと難しい。

映画も音楽なども含めて、創造は技術主義と思われがちだが、けっしてそうではない部分できっとどなたも苦労する。黒や白でない部分こそが私の憧れであり、高揚し、願わくば向かい合いたい部分であるのだが、そんな知識ばかりで頭だけが大きくなり、創るに向き合う姿勢に耐えられない事態も発生する。人間力は自ら人生を歩んだ時間がそれを助けてくれるのかもしれない。技術も目も耳もそうなっていくと嬉しい。そんな支えの存在を教わった音楽会だった。決して甘えたことではない。一流と三流とは違う。ただ気楽に無能に歩くだけではだめなんだ。
そしていつか、自らを幸せにしてくれるかもしれない、と思っていた芸術が、人を幸せにできるのかもしれないに変わっていくことが、本質への扉なのかもしれない。