二月堂


2018年春、二月堂にて何を。

 お水取りが終われば春がやってくると言われているが、今年の二月堂は私は初めての暖かさ。例年の如く用意したダウンもニット帽も今年に限っては過剰な装備で少しウイている。過ごしやすく嬉しくもなんだか呆気にとられる3月。おかげで境内の散歩も気持ちが楽で別火から二月堂をゆっくりゆっくり眺めることができた。茶屋での休憩も楽しみのひとつ。この景色は映画「紫」以来、自分にとっては考え事に適した場所となり、梅も紅葉の枝も年数かけて見守ることができ、東大寺の圧倒的な存在感が何故か自分の支えとなっている。一度は母親を連れてきたしと思ってはこうやって実行することなく何年もたった。

 お松明をみる。今年の人手はそう多いとは思わなかった。だけど近年の奈良警察が集まる人々へ向ける巨大な白灯は何なんだ。暗くて危ないそう。では昔の人は危なくなく転けなかったのか。足元を注意しろ、かばんを前にかかえろ、前の人を押すな、当然の事ばかりを大スピーカーで永遠と告知する。昔からの伝わりを近代の人がそのまま続けるのはそんなに難しいのか…。人々のお松明が終わったあとの拍手にもハッとした。

 私はどうして東大寺二月堂に向かうのか。この地が持つ1260年の重さが日々の自分の仕事の甘さや手抜きを一切見透かすのである。来年も来れるように頑張ろう、これがいつもの帰路の気持ち。そこにどんとしている。「残っている」ものの強さは恐ろしくも圧倒的だ。