石黒宗麿20年ぶり回顧展


石黒宗麿のすべて (松濤美術館20151208-20160131)

1955年に重要文化財保持者(人間国宝)の制度ができた時、富本憲吉、濱田庄司、荒川豊蔵と共に認定をされた人物、石黒宗麿。前3名のことはうすら覚えの知識で存じてはいたけれど、実は恥ずかしいことに私は石黒宗麿は作品をみた事がなかった。尾久彰三さんがこの展覧会の記念座談会に参加なさるので、こういう機会も大事だとこのたびはじめて回顧展を訪ねてみた。

作品をみてから座談会をきかせていただこうと展示会場をゆっくり歩けば、余計な事が頭をよぎりなかなか品物に集中できない。中国陶器のうつしをみれば小山さんの読みかけの本を思い出し、赤絵をみると沖縄のある親方を思い出し、柿釉をみれば英国の旅を思い出し…、どんどん気が散ってしまう。最近疲れているのかしらと反省したり、長編の制作が終わり集中途切れたままなのか、と自分を甘やかしてみたり。気をとりなおして回覧2週目に突入。なんとなく捉えることに慣れてきたところで座談会の時間となってしまった。

会場には50名ぐらいの聴講者が着席されているのをみて、人気のある陶工者と理解できた。座ってまわりを見るとご年配の方が多い。開始された小野公久氏、青柳恵介氏、尾久彰三氏の3名の座談会は予定をこえ個性的に進んでゆく。石黒とはどんな人物だったのか。お話を伺う限り誰が誰をこう言った、誰がそれでそうなった、研究者というものは色々お調べになるものねと関心することばかり。そうこうしてたら柳宗悦率いる民藝運動の理解者であった大原孫三郎の名がここでも登場する。資産家と芸術家はいつの時代的も深い繋がりがある。もうひとつ面白いことに、同じく深い関わりとなるのが両者の間をとりもつ代弁者たちの存在である。こちらにも物語がついてまわり、実に人間ぽい話が飛び出してくる。今回でいえば富山の薬売りの存在が石黒のある時期を変える。なるほどなと興味深く納得し、それならば自分にとって現代の薬売りがいるのであれば会ってみたい、いったいどこにいるのかなあと天井をみあげる。手を挙げて出会えるものなら会ってみたい。

座談会では尾久先生は民藝というお立場でありながら石黒の事を悪くは言わない。同郷であるんだとその状況を濁すところはさすがにユニークで、ただ決めつけることはせず考えは常に大きな幅をお持ちで、なにより作り手への尊敬が伺える。登壇されてる先生方は、こうやって各々ご自分の専門分野を深く勉強なさっていると実感した。座談会を聴く事ができてよかった。

お話を伺って気がついた事がある。柳と石黒が良い悪いと言い争いや、濱田がどうの石黒がどうのこうのと、皆が興味を示すコミュニケーションの後日談があった。当時それは大変な話題だったろうと思いつつ、我に返って考えてみれば、その両者程度の良い仕事の域にならない限り極悪とされた等の関係性ですら築けない。仲がいいとか悪いとかいずれにしても歴史的両者のひとつひとつのニュアンスは、才と努力にて導かれた先代先生たちゆえの話であって、自分ではとうていかなわない次元の話。だからこそ後世たちが集い語らう素敵な会も開催される。

美術館をでて近所の民藝館へ散歩する事にした。到着したら今年の民藝館展初日だった。民芸館展をみるのは初めてのこと。日本中から民藝への想いの品物が出品され並んでいる。展示販売されている品物は上品で綺麗上等なものばかりで購入することができる。若い観覧者が訪れて品物をみている様子が新鮮だった。ちょっと気になる事もある。見ているものはまるで百貨店でみているよう。並ぶ良品からは、ここに来る前の時間で眺め感じたような人間くささを捉える物はない。時代の中にいて作ることで出力されている必死さや力強さをあまり感じない。やりすぎて失敗に至ったり自分を見失ったりという人間のバタバタがみえない。こういうことか。公募展とは違い小部屋に通常展示も残されていたのだが、こちらのパワーは何ともすごい。民藝とは頭でわかっていても目の前の品物をみると自分の感覚が揺らぐ。ほらほら、ここまで来いと先代たちは呼んでいるのか。

帰路で自分の中にあるものを考えた。自分の撮る画は静かと言われる。そして映画となったそれはもっと静かになり、長編映画の仲間に入れてもらえないようなちょっと変わった映画となる。不憫さを抱え道を歩き電車に乗った。だけど自分の場合、悩みの回答はとっくに知っている。毎日こんなに必死だけれどもそれが画の強さに現れないということはただの力不足。石黒宗麿を年表や作品と書簡で見直せば、なんとなく今日はそれを確信した。異端である斬新さもが品格となる。そこまでいかないと。私に時間はあるだろうか。

 

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