記録の役割り

企画の時は言語のハードルを越えられない時がある。企画をしている時は資金もない場合が多いので大変な手間である。

今回はフランス語でスタックしていた。かつての映像の中で話している内容を知りたい。まったく太刀打ちできず途方にくれていたら、それを察知してくれたMirai Tokyoの海渡千佳さんはかつての同僚に事情を話しフランス語訳の相談をもちかけてくれた。しかもその同僚はなんと快く引き受けてくれるという。それだけで小躍りする事だった。待望の約束の日、元同僚は「フランス語は久しぶりでどうだろうか」といいつつも、目の前で同時通訳をやってのけてくれた。知っていたけどさすがに優秀である。ほんとうに嬉しかった。

元同僚が読んでくれた内容。どんどん読んでくれる内容のリアルさに驚愕しながら必死でメモをとった。そこからはある歴史が現れた。たしかにこれまでの人生でいろんな書物で読んだ歴史だ。不思議な感覚に陥った。いまこうして少し時間が経ってからメモを眺めてみている。現段階の日本で暮らす私たちの日常に非常にタイムリーな内容だった。全員に見てもらいたい内容だ。

映像は面倒臭くて、お金がかかって、機材が必要で、それでいて….あまりよしとする点がないようにも思う。しかし、記録には向いている。こういうことが実際にあったんだと後の世代が観ることができる。いま、まさに私は体感している。

勇気を持ち歴史を知る覚悟をしなければならない。
そして映像を扱うものの端くれとして、「記録」ということを大事にしていきたいと再確認した。

映画つくりはひとつひとつゆっくり進んでゆく。